アーバントリ

当事務所は弁護士小数名のごく普通の事務所です。


相続相談ガイドに取材されました。


その代表である私・嘉村孝(東京弁護士会所属)は、
元々弁護士を志望していた者ではありません。

少年時代、小学校では理科や工作が大好きでした。
しかし、足して2ケタになると間違えるというおっちょこちょいであったことから、
どう考えても数学などで身を立てることはできませんでしたし、
中学に入れば今度は英語という難題が持ち上がってきました。

戦後まだ十数年しか経っていないその頃でしたが、
学校の先生はアメリカ礼賛のオンパレード。
これに対して私は大いに反発しました。
英語は全く勉強せず、特に中学3年生の時は、1年中立たされていました。
高校では、「I beg your pardon」と言えば、
立たされなくて済むというきまりだったので、
20数週間連続してその言葉を述べ、学友
からは「おい、いつまでやるんだ」と心配されました。

そんなわけですから、英語の成績はもちろん最悪で、
とても良い学校に行けるとは思われませんでしたが、
高校2年生の時、2学期の中間テストで1つしか
問題が出来ないという事態に立ち至って、
やっとはたと目が覚めました。

しかし、時既に遅く、今更勉強しても回復できるものではありません。
それでも国立大学に行きたいと思っていたのですからいい面の皮です。
確かに古文や漢文はトップの成績でした。
そしてその頃は随分歴史が好きになっていました。
ですから、歴史家になろうと思っていたのですが、
ちょうど高校3年生も終わる1969年の受験時は、
学生運動の嵐が日本中に吹き荒れ、
とうとう希望していた大学の入試が中止となりました。

そこで、やむを得ず、進路を変更して法学部を
受験することになってしまったのです。

でも、法学部に入っても、大学ではまともな授業は行われませんでした。
4月17日から早速ロックアウトが始まり、1年生ではほとんど授業なし、
4年生は全く授業なしという状態で、いわば独学のわけの分からぬ勉強を
やっていたといわねばなりませんが、たまたま高校の恩師であった高名な
刑法学者の息子さんから司法試験を受験するように言われて、
何となくこの道に入ってきたというわけです。

その後、司法修習生を経て裁判官を6年経験した後弁護士になったわけですが、
この最初の6年間は全くの駆け出しですから、
まずは刑事事件の陪席(陪席ということは
つまり3人構成ですから事件としては重大事件ばかりです)、
その後民事の陪席をやって、行政事件などもそれなりに担当することが出来ました。

そして最後の3年間は、ある大きな裁判所の労働事件の専門部にいたので、
ここでは大企業から中小企業に至るまで、
ありとあらゆる労働事件や労災事件を担当してきました。
したがって、今でもこうした事件に違和感なく取り組めるのは
この時の経験が大いに物を言ってると思います。